2021年3月17日水曜日

『貨幣の購買力』第三章 第1節


 何年か前に所属する学会で、環境問題に向き合って活動している若者を呼んで話を聞いてみようという企画が実施された。そのときの発表の中でも東京の某大学の男子学生の発表が忘れられない。

彼は、いかにして人的ネットワークを構築するか、つまりインターネットを駆使することを切々と語り、最後に、「温暖化防止」のようなことが書かれたプラカードを持って街を練り歩いた様子がTBSだかのニュースに紹介された映像を流して発表を締めたのだった。言うまでもなく、温暖化ガスの削減になることは一切やっていない。むしろ温暖化に加担するようなことばかりに励んでいたわけだが、声を上げてメディアに取り上げられたから自分たちの活動は社会的に評価されたのだ、と得意になっていただけなのだ。一瞬、この子はバカなのか、と思ったのだが、深く物事を考える大人との交流のないまま育ったであろう若者を哀れに思わずにいられなくなった。そのことはまた深く考える大人の希少性を物語っていたのだ。

現代社会が抱える問題は遡って考えた方がいいと思う。昨日記したように、ゲーテは18世期末には人類の行く末を見抜いていたのだろう。そして、マックス・ヴェーバーは「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)という未来を予想し、シュペングラーは彼が「貨幣の独裁」(『西洋の没落』)と呼ぶ末路を予見した。

「財をもってする思考に代わって貨幣をもってする思考が現れる。・・・経済像は財の本質的特徴をなす質とは関係なく、もっぱら量に帰せられる。」(『西洋の没落』第二巻 p.395)

「複式簿記がルカ・パチョーリ(1494年)によって発明されたことは決定的なものとなった。」(『西洋の没落』第二巻 p.402

「帳簿価値の抽象的体系は複式簿記によって人格から遊離し、そうして自身の内的動力学によって活動し続けている。」(『西洋の没落』第二巻 p.405)

原子力エネルギーの大きさに人類で最初に気づいたノーベル賞科学者フレデリック・ソディは、「複式簿記」まで遡って、貨幣論を展開した。科学者であるフレデリック・ソディは「財」をエネルギーの化身と考え、熱力学の原理に則して、貨幣を考察したのだ。だから、ソディの貨幣論は、主流派の経済学者には無視され続けたが、エコロジー経済学の世界では大きく取り上げられている。ソディの貨幣論抜きで環境・エネルギー問題を論じることがいかに間抜けかと思えるくらいのものなのである。(なお、ソディの貨幣論については、新潟大学の藤堂史明氏が訳を手掛けているので、ググられたい)

ソディが貨幣について思索するにあたって参照した経済書は、アーヴィング・フィッシャーの『貨幣の購買力』である。これは戦前には邦訳が出版されていたが(古書はとても高額)、戦後どういうわけだか邦訳が姿を消した経済書である。

アーヴィング・フィッシャーの没年が1947年ということで、著作権が切れたので、自由に翻訳・伝授できる時代になっている。そこで、とりあえず、『貨幣の購買力』第三章第1節を訳してみた。この内容は、最近、イングランド銀行の紀要で説明されたものと同じ内容であることを確認できるだろう。エネルギー供給量などお構いなしに、マネーはいとも簡単に創られるのだ。そして、フィッシャーもイングランド銀行も実は金利が(債務者当人にではなく)社会にどういうことをもたらすかという根本問題に触れていない。これこそソディが現代文明の崩壊を予見した理由である。

ゲーテの先見の明や「国民所得倍増計画」の下村治の経済理論や「ブルシット・ジョブ」で知られるようになったデイビッド・グレーバーの『負債論』を理解する上で、また、環境・エネルギー問題に向き合う上で間抜けと思われないためにも、「複式簿記」に関する書物としてフィッシャーのこの箇所は必読であるように思う。さらに言えば、『地域衰退』の大元はこの辺りの見識と展望を田舎者が欠いていることにあると思う。





The Purchasing Power of Money, its Determination and Relation to Credit, Interest and Crises, by Irving Fisher, assisted by Harry G. Brown (New York: Macmillan, 1922). New and Revised Edition.

第三章 交換方程式および購買力への派生預金の影響

§1
 われわれは今や派生預金あるいは流動性預金の性質について説明する準備が出来ている。信用とは、一般に、貸し手が借り手から返してもらえることで成り立つ。銀行預金を現金化することは預金者が銀行に対して支払い請求することであり、そうすることで預金者は、必要に応じて、ある金額のお金を銀行から引き出している。銀行預金についてはそれ以上のことを考えないので、われわれはたいてい「現金化できる信用」を単に「銀行預金」と呼んでいる。それらはまた「流動性預金」とも呼ばれる。このように、預金通帳は単にお金を引き出す、つまり銀行預金を移動するための保証書なのだ。預金通帳自体は通貨ではないが、通帳が示す銀行預金は通貨である。
 銀行預金の移動に伴って、「回り出す信用」という「銀行業務のミステリー」が起こる。エコノミストも含めて多くの人々が思っていることは、信用は銀行によって根も葉もなく創りだされた富の特別な様式だということだ。他の者たちは、もしも合法的な存在でないとしたならば、預金は現実の富における基盤を持たないばかりか、心許なく非現実で膨らんだ泡のようなものだとの立場を取る。実際には、銀行預金は銀行券と同じくらい容易に理解できるもので、銀行預金に関するこの章で述べられることは、実質的には銀行券においてもあてはまると考えて良い。主な違いは形式的なことで、預金通貨が「勘定」という特別なやり方で循環する一方で、銀行券が手渡しされる、ということだ。
 銀行預金の真の性質を理解するために、仮想上の金融機関を想像してみよう。それは、預金業務と現金の安全な保持のために存在する原始的な銀行だ。アムステルダムのもともとの銀行というのが、今想像しているような銀行だった。そこに、多くの人々が金(ゴールド)で$100,000預けて、各々が預金口座に領収書を受け取っている。この銀行が「勘定書」を発行するならば、金庫の中にある$100,000と預金者に支払い義務のある$100,000を表わすことになるだろう。

 資産 負債
金$100,000預金者に支払われるべき$100,000

 勘定書の右辺は、もちろん、個々の預金者に支払い義務のある金額の和である。Aさんに$10,000、Bさんに$10,000、他の人々に$80,000支払い義務があるとすれば、勘定書は次のように書かれる。

 資産 負債
金$100,000預金者Aに支払われるべき$10,000
預金者Bに支払われるべき$10,000
   他の預金者に支払われるべき$80,000
合計100,000  100,000 

 今、AさんがBさんに$1,000払いたいとしよう。AさんはBさんと共に銀行に行き、通帳を出して$1,000の金を受け取って、それをBさんに渡す。Bさんは再び$1,000の金を同じ銀行に預けるとする。単に窓口を通して受け取った$1,000の金を預け、Bさん名義の通帳に記入してもらうことになる。けれども、AさんとBさんの共に銀行を訪ねてお金を扱う代わりに、Aさんが単にBさんに$1,000の小切手を与えてもいい。いずれにしても、お金は移動して、銀行にあったAさんの持分$10,000は$9,000に減り、Bさんの預金は$10,000から$11,000に増えたことになる。そして、勘定書は、こうなる。

 資産 負債
金$100,000預金者Aに支払われるべき$9,000
預金者Bに支払われるべき$11,000
   他の預金者に支払われるべき$80,000
合計$100,000 100,000 

 このようにして、預かり証ないし勘定書が銀行内の様々な預金者の間を現金に代わって動き回るだろう。そのときに本当に所有関係を変えているもの、あるいは動いているものは、お金を引き出す権利なのだ。勘定書は単にこの権利の証拠であり、ある人から別の人へとこの権利が移動した証拠となるものなのだ。
 こういう考えの下では、銀行はただただ途方にくれながら経営されることになる。銀行には何ら見返りもないまま、預金者の便宜のために事務的な時間と労働を捧げるだけになってしまうだろう。だが、そんな仮想的銀行も、アムステルダムの銀行がそうしたように、すぐに預蹴られた金のいくらかを金利を取って貸し出すことでお金を創ることができると気づくだろう。そうしたところで預金者に迷惑をかけることもないのだ。というのは、預けられている金が一斉に引き出されることはまずないからだ。預金者の望みは必要なときには預けただけの金を引き出せればいいということだ。そこで、銀行の手筈はすべてではなく一定量の支払いに応じることになって、しばしば、金庫に遊んでいる金の一部を自由に貸し出せることに気づいたというわけだ。使われもしない金を保持することは機会損失というものだ。
そこで、銀行が現金の半分を貸し出すことを決定したとしよう。このことは通常、借用証書との交換によってなされる。まさに貸し出しとは、お金と借用証書との交換なのであり、貸し手である銀行は金を渡して借用証書を受け取る。そのとき、借り手は実際に$50,000を金で引き出している。銀行は、これによって、金と約束を交換したことになり、帳簿は次のようになる。

 資産 負債
金$50,000預金者Aに支払われるべき$9,000
借用証書$50,000預金者Bに支払われるべき$11,000
   他の預金者に支払われるべき$80,000
合計$100,000 100,000 

 今や銀行にある金は$50,000分だけになり、一方、預金の全額は$100,000のままである。言い換えれば、預金者は、銀行が金庫に保有している金よりも多くのお金を預金として持っていることになるのだ!しかし、こういう言い方は、「お金」という言葉の中にありがちな間違いを含んでいる。何かよいことがあるとしたら、それは貸し出しという裏付けがあるのであり、必ずしもお金の裏づけである必要はないのだ。
 次に、この借り手が、現金で$50,000を再び預金することことで預金者になることを考えてみよう。つまり、要求次第で同じ額を引き出せる権利を借りたことになる。別の言い方をするならば、銀行から金$50,000を借りた後で、借り手が銀行にそれを貸し出す場合を考えるのだ。銀行の資産は金$50,000だけ拡大し、債務(預金量の伸び)もまた等しく拡大するだろう。そして、バランスシートはこうなる。

 資産 負債
金$100,000預金者Aに支払われるべき$9,000
借用証書$50,000預金者Bに支払われるべき$11,000
他の預金者に支払われるべき$80,000
   新規の預金者(借り手)に支払われるべき$50,000
合計150,000 150,000 

 この場合に起こることは次の通りだ。金が借用証書との交換によって借り入れられて、次いで引き出す権利との交換によって銀行に戻されたということだ。かくして、金は現実には動かなかったことになる。だが、銀行は借用証書を手に入れ、預金者はお金を引き出す権利を手に入れたことになる。したがって、明らかなことだが、借り手が借用証書を渡して、その代わりに、お金を引き出す権利を受け取ったとしても、同じことになるだろう。この取り扱いは銀行業務のことを学ぶ際に初学者を最もしばしば悩ますことなので、わたしたちはこういう「貸し出し」つまり借用証書とお金を引き出す権利との交換の前と後での状態を示す貸借対照表を復習しておきましょう。すなわち、

貸出前
 資産 負債
金$100,000預金者に支払われるべき$100,000
貸出後
 資産 負債
金$100,000預金者に支払われるべき$150,000
借用証書$50,000

 明らかに、この場合のお金の媒介は不必要に複雑に思えるかもしれないが、債権と債務の結果的な動きについての理論的な理解を助けるだろう。ともあれ、このように、銀行は金あるいは約束を預かっている。約束の交換において、銀行は、お金を引き出す権利にせよ金にせよ、渡すか貸すかしているのだが、その金は別の顧客が預けたものなのだ。借り手が単に約束したときでさえ、フィクションによって彼はお金をすでに預けていることになり、本来の預金者と同じように小切手を切る権利を与えられる。お金を引き出す権利を行使できる全額は、どのように生じたものであれ、「預金」と呼ばれる。銀行はしばしば現実のお金よりもお金を引き出す権利すなわち預金を貸す。というのは、借り手にとっても都合がよいし、予期せぬ大きな需要に備えて銀行は現金をたくさん保有していたいからである。銀行がお金を貸すとき、貸し出されたお金の多くは借り手がそれをビジネスで支払った人々によって再び預金されていることも事実だ。だが、そのお金が必ずしも同じ銀行に預金されるとは限らない。それゆえに、並の銀行家は借り手が現金を引き出さないことを好む。
 預金を貸し出すことに加えて、銀行は「銀行券」と呼ばれる自前の証書を貸し出してもいい。そして、銀行券を管理する原理は預金の権利を管理するのと同じことである。銀行券の持ち主は、銀行口座の代わりに、たくさんの銀行券を持つことになるだけのことだ。いずれにせよ、銀行はいつでも、預金者に対して支払い要求に応じるのと同様に、銀行券の持ち主には「買い戻して」支払う準備をしなければならならず、いずれにせよ、銀行は約束と約束を交換するわけだ。銀行券の場合には、銀行は銀行券を顧客の借用証書と交換する。銀行券は利子を生まないが、必要なときに支払いに使える。顧客の覚書は利子を生むが、指定された期日にだけ支払われる。
 さて、銀行が$50,000の銀行券を発行したなら、バランスシートは次のようになる。

 資産 負債
金$100,000預金者に支払われるべき$150,000
 借用証書$100,000 銀行券の保有者$50,000
合計200,000 200,000 
 
 再び、信用ゆえに貸方にある銀行の預金(および銀行券)は現金を超えている。もしも人々がお金の管理として銀行業務について考えないように仕向けられるなければ、不思議に思うこともなく、この事実に関して不明のままで、ましてや預金一般についても知らないままだろう。それで、これらのことを表にすることは隠喩的で誤解を招く。銀行業務は、現物資産の取引でないのと同様に、それはお金の管理でもないからだ。銀行の預金者Aは普段「預けられたお金」を持ってない。そして、彼が持っているかどうかにかかわらず、彼は「銀行に金がある」とも適切に言うことはできない。彼が持っている当のものは。あくまでも要求次第でお金を支払うという銀行の約束なのだ。銀行は彼にお金を支払う義務を負う。ある私人がお金を借りているときに、債権者が債務者のポケットの中にある預金に自分の金を持っていると言うことは決して想定されないのだ。



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