2021年3月12日金曜日

『根をもつこと』

 シュペングラーが農民を「植物的存在」と言ったことについて、抜き出しておく。

「原始の人間は流浪する動物であり・・・(中略)・・・場所に拘束されず、故郷もなく、鋭敏で臆病な感覚を持った、絶えず敵である自然から何物かを取ろうとしているのである。深い変化は農業とともに初めて生じた。というのは、これは猟師にも牧人にも全然縁のない人為的なものだからである。耕したり、鋤いたりする者は自然から強奪しようとするのではなく、自然を変えようとするものである。植えるということは何物かをとることではなく、何物かを生み出すことである。しかしこれとともに人間自身植物になる。すなわち農民になるのである。人はその耕すところの地面にをおろす。人間の魂は土地のなかに一つの魂を発見する。・・・(中略)・・・これは文化の前提である。」(『西洋の没落』第二巻 p.74)

「原始時代から自分の土魂の上に住み、あるいはこれを所有して自分の血でそこに固着している農民の魂のなかにはいって沈思してみるがいい。かれは祖先の子孫として、また後世の子孫の先祖としてをおろしている。かれの家、かれの所有、これはここでは短い数年間における肉体と財産との一時的な組み合わせではなく、永久の土地と永久の血との永続的な、内的結合を意味する。これによって初めて神秘的な意義でいう定住から、生殖、出生、死亡という循環の大きな紀元が、かの形而上学的な魔力、土地と結びついた住民の風俗と宗教とのなかにその象徴的な強点を見いだす形而上学的な魔力をうるにいたるのである。」(『西洋の没落』第二巻 p.86)

 やがて、都市が生まれ、都市が主導権を握る。

「巨大都市を伴った文明の生ずるにおよんで、この精神態のは軽蔑され、そうして人はこれから遊離するようになる。文明化した人間、すなわち知的遊牧民はまたもや全然小宇宙となり、全然故郷なく、猟師と牧者とが感覚的に自由であったと同じに知的に自由になる。」(『西洋の没落』第二巻 p.75)

「今日この文化の終末に際しては、のない知性はあらゆる土地的な、また思想的な可能性の間に浮動している。しかしこの両者(註:文化と文明)の間に存する時期は、人間が一片の土のために死ぬ時期である。」(『西洋の没落』第二巻 p.75)

 そして、文明の終末とは、植物が枯れるような事態である。

「純粋の農民を、深い、説明することのできない不安で襲うこと、すなわち家族と名前の滅亡という考えはその意義を失った。見えうべき世界のなかに親族の血を永続させることは、もはやこの血の義務と感ぜられなくなり、最後の人間だという偶然はもはや宿命と感ぜられない。」(『西洋の没落』第二巻 p.86)

 私もまた農村を離れて、生活するようになっている。


 第二次世界大戦中、フランスからイギリスに逃れていたシモーヌ・ヴェイユは『根をもつこと』を著した。

をもつこと、それはおそらく人間の魂のもっとも重要な欲求であると同時に、もっとも無視されている欲求である。また、もっとも定義のむずかしい欲求のひとつでもある。人間は過去のある種の富や未来へのある種の予感を生き生きといだいて存続する集団に、自然なかたちで参与することで、をもつ。自然なかたちでの参与とは、場所、出生、職業、人間関係を介しておのずと実現される参与を意味する。人間は複数のをもつことを欲する。自分が自然なかたちでかかわる複数の環境を介して、道徳的・知的・霊的な生の全体性なるものをうけとりたいと欲するのである」(『根をもつこと』上p.64)

「軍事的征服がおこなわれるたびにこぎが生じる。・・・(中略)・・・服従を強いられる民族にとって、こぎは死にいたる病となる。・・・(中略)・・・たとえ軍事的征服が為されなくとも、金銭にもとづく権力や経済的支配は、その土地柄になじまない影響をおよぼし、ついにはこぎの病をひきおこす。・・・金銭はいっさいの動機を金儲けの欲望にすりかえ、それが侵食するいたるところでもろもろのを破壊する」(『根をもつこと』上p.65)

 どこで道を誤ったか。

「15世紀になって第一のルネサンス が現れる。それはローマ以前の文明と12世紀精神の復活をかすかながら予感させた。真正のギリシア、ピュタゴラス、プラトンは宗教的な崇敬の対象とされ、その崇敬は完璧なる調和のうちにキリスト教信仰とむすばれていた。だがこの精神姿勢はきわめて短期で消えた。

 まもなく第二のルネサンスが現れるが、めざす方向は逆だった。われわれが近代文明と呼ぶものを生み出したのはこのルネサンスである。

 われわれはこの文明をきわめて誇りにしてはいるが、これが病んでいることを知らないではない。病気の診断内容については万人の同意が得られよう。近代文明が病んでいるのは、肉体労働とその従事者に与えるべき地位を精確にみきわめられないからだ。多くの知性がこの問題について手探りで議論を重ねることに疲れはてている。どうやって着手すべきか、なにを導き手とすべきかわからない。よって努力が実らない。」(『根をもつこと』下p.176)

 日本が明治維新以降、西洋文明に飲み込まれていることは言うまでもない。



0 件のコメント:

コメントを投稿